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12. 楚凌の誓い

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2026-01-09 20:21:07

門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。

華やかな宮中は、もう遠い。

朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。

ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。

蘭珠は、まだ慣れずにいた。

慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。

慣れないのは、自分の立ち位置だった。

夫と呼ばれる男が隣にいる。

けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。

声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。

妊娠初期のつわりは思った以上に重い。

朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。

そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。

名は周蘭(しゅうらん)。

五十に手が届く頃だろうか。

働き者で、口は達者だが、言葉の端々に思いやりが滲む。

「奥さま、今日は横になっていなさい。床はわたしが掃いておきますから」

奥さま、と呼ばれるたび、蘭珠は小さく息を飲む。

まだ、自分がそう呼ばれることに慣れていない。

その日の午後、窓の外がまだ明るいうちに、戸の音がした。

「……ただいま戻りました」

楚凌の声だった。

今日は門番の交代がなく、早
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  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   57. 最後の逃げ道

    朝靄を裂くように、楚凌たちの騎馬隊は城門前へ迫った。遠目にも、景衡の姿はすぐに分かった。閉ざされた門の前で馬を止め、城壁を見上げている。その周囲にはわずかな護衛が残っているだけで、王都を囲んでいた時の勢いはもうどこにもなかった。楚凌は速度を落とした。「止まれ」後続の騎兵たちも一斉に手綱を引く。蹄の音が途切れると、朝の空気に奇妙な静けさが戻った。景衡の護衛たちは剣へ手をかけている。だが、城門は閉ざされたままだ。楚凌はその光景を見ただけで、おおよその事情を察した。景衡はまだ城内へ入れてもらっていない。しかも城壁の上には兵が並んでいるものの、こちらへ弓を向ける様子がない。景衡を守ろうとしているなら、すでに射かけてきてもおかしくない距離だった。城側は迷っている。いや。すでに答えは、ほとんど出ているのかもしれない。「楚凌……!」景衡が振り返った。その顔は青ざめ、長い逃走の疲れがありありと浮かんでいる。「なぜ、貴様がここまで……」楚凌は景衡をまっすぐ見据えた。「陸曜は死んだ。王都へ入った兵も捕らえた。これ以上逃げても意味はありません」「黙れ!」景衡は声を荒らげた。「まだ終わってはいない! ここには兵がいる。蒼隼国からも援軍が来る!」その言葉に、城壁の上の兵たちがわずかにざわめく。楚凌はそれを見逃さなかった。やはり、蒼隼国の援軍はまだ来ていない。そして城内の者たちも、それを当てにして命を懸ける気にはなっていない。楚凌は馬を数歩進めた。景衡の護衛が身構える。こちらの騎兵たちも剣へ手をかけたが、楚凌は片手を上げて制した。今ここで戦を始める必要はない。戦わずに終わらせられるなら、その方がいい。楚凌は城壁を見上げた。「城を守る者へ申し上げる!」声を張る。兵たちの視線が一斉に集まった。「我々が追っているのは景衡王爺です。この城の兵や民と戦うために来たのではない!」城壁の上で、先ほど景衡と話していたらしい武官が姿を現す。楚凌は続けた。「門は閉ざしたままで構わない。こちらへ兵を出す必要もない。ただし、景衡王爺を城内へ入れないでいただきたい」景衡が目を見開いた。「何を勝手なことを!」楚凌は構わず言葉を続ける。「王爺を入れれば、この城は反乱の拠点となる。そうなれば、皇太子殿下もこの土地を敵地として扱わざるを得

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    景衡は、何度も後ろを振り返っていた。朝靄の中を、馬の蹄が土を蹴り上げる。王都を離れてから、どれほど走ったのか分からない。最初は数百いた兵も、逃走の途中で散り散りになり、今では自分の周囲に残っているのは直属の騎兵とわずかな護衛だけだった。誰も口を利かない。話せば、敗北を認めることになるような気がした。景衡は馬上で奥歯を噛む。こんなはずではなかった。王都内部には十分な人数を潜り込ませた。放火で民を混乱させ、皇太子への不満を煽り、内側から門を開く。狼煙が上がれば陸曜が軍を動かす。王都へ入った後は、混乱した兵を押し切り、宮城を落とす。すべて、うまくいくはずだった。少なくとも陸曜はそう言っていた。――殿下は何もなさらずともよろしい。――王都へ入った後、皇族として御姿をお見せください。それだけで兵も民も、景炎ではなく殿下こそ天命を受ける者だと理解いたしましょう。景衡は、その言葉を信じた。いや。信じたかったのだ。兄の景炎は昔から何でも自分より上だった。戦えば勝つ。政を任されれば結果を出す。父帝からも期待され、臣下たちからも次代の皇帝として見られている。自分は違った。景炎の弟。それだけだった。どれほど努力しても兄の影から出ることができない。そんな自分へ、陸曜は初めて言ったのだ。景衡様こそ皇帝にふさわしい、と。「王爺!」前を走っていた騎兵が振り返った。「もうすぐ城です!」景衡は顔を上げる。朝靄の向こうに、見慣れた城壁が浮かんでいた。胸の奥に、ようやく安堵が広がる。ここまで来ればいい。あの城には兵がいる。武器もある。食糧も蓄えている。何より、あの土地は皇太子の命によって自分が統治を任

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   55. 追撃

    王都を離れてから、どれほど走っただろう。夜の街道を、蹄の音が駆け抜けていく。楚凌は先頭に立ち、南へ馬を走らせていた。その後ろには、王都から選び抜いた騎兵たちが続いている。数は多くないが、追撃戦に慣れた者を優先して連れてきた。景衡軍と正面からぶつかるためではない。逃げる景衡を捕らえるための兵だ。「楚凌殿!」前方から声が飛んだ。「敵兵です!」楚凌は手綱を引き、馬の速度をわずかに落とした。街道の先に、いくつもの松明が見える。景衡軍の後衛だった。ただし、軍と呼べるほど整然としてはいない。数十人ほどの兵がまとまりなく走り、振り返っては王都の方角を気にしている。陸曜を失った影響は、楚凌が想像していた以上に大きいらしい。「追いつきますか」隣を走る騎兵が尋ねる。楚凌は前方を見たまま答えた。「追いつく。だが深追いするな」「はっ」「我々の目的は雑兵を討つことではない。景衡だ」腰の剣へ手を添える。その動きだけで肩に痛みが走った。楚凌は眉を寄せた。背中の火傷も悪化している。馬が地面を蹴るたびに身体が上下し、そのたび包帯の下の皮膚が引き攣った。汗が傷へ入り込むのか、焼けるような痛みまで感じる。王都を出る前より、確実に身体は重くなっていた。それでも止まれない。――必ず帰る。自分で蘭珠へ伝えた言葉だった。口にした以上、守らなければならない。景衡を捕らえる。この反乱を終わらせる。そして帰る。それだけだった。「速度を上げろ!」楚凌の号令とともに、騎兵たちが一斉に馬腹を蹴った。蹄の音が大きくなる。前方の敵兵も追手に気づいた。「来たぞ!」「追手だ!」悲鳴に近い声が夜へ響く。景衡軍の後衛が慌てて隊列を組もうとする。だが遅かった。陸曜がいれば、違っただろう。追撃を予測し、後衛へ指揮官を置き、逃げる本隊との距離を保ちながら迎撃させたはずだ。今は、それがない。誰かが「止まれ」と叫び、別の者が「逃げろ」と叫んでいる。兵たち自身が、誰の命令に従えばいいのか分かっていなかった。楚凌は剣を抜いた。「道を開けろ!」怒声が響く。数人の敵兵が槍を構える。楚凌は馬上から剣を振るい、その穂先を弾いた。左右から味方の騎兵が駆け抜ける。敵の隊列が崩れた。それでも、楚凌は追わない。逃げる兵を背後から斬る必要などなかった。「

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   54. 産声

    痛みは、波のように繰り返し押し寄せてきた。一度遠のいたかと思えば、再び腹の奥が強く締めつけられる。蘭珠は敷布を握りしめ、声を堪えながら必死に呼吸を整えた。「……っ、う……」「蘭珠様、息を止めないでください。ゆっくり吐いて」枕元から声をかけたのは、紙問屋の娘である芳玉だった。その反対側では、これまで身の回りを手伝ってくれていた女が、汗に濡れた蘭珠の額を冷たい布で拭ってくれている。二人とも、ずっとそばにいてくれた。自分の出産など、本来ならこの家には何の関係もない。それなのに紙問屋の一家は部屋を貸してくれただけでなく、湯や布を用意し、芳玉まで付き添ってくれている。「芳玉さん……本当に、もう大丈夫ですから。こんな夜中まで付き添っていただくなんて……」痛みが引いた隙にそう言うと、芳玉は困ったように眉を下げた。「今はそんなことを仰らないでください。蘭珠様には、私のことでたくさん助けていただいたんですから」「でも……」「遠慮なさらないでください」今度は手伝いの女が口を挟んだ。「私はもともと蘭珠様のお手伝いをしているのですから、こんな時にいなくてどうするんです」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳なくなる。火事に遭い、足を傷つけ、突然この屋敷へ転がり込んだ。それだけでも迷惑をかけているというのに、今度は出産まで始まってしまった。「……ありがとうございます」蘭珠は小さく頭を下げた。その直後、また腹が硬くなった。「……っ!」今度の痛みは強かった。下腹の奥から腰へかけて、きつく絞り上げられるような痛みが広がる。蘭珠は敷布を握ったまま目を閉じ、侍医に教えられた

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   53. 帰るための戦い

    陸曜を討ったあとも、大門の内側には血と火の臭いが残っていた。捕らえた兵たちは次々と連行され、負傷者には敵味方を問わず手当てが施されている。つい先ほどまで剣戟が響いていた石畳には折れた武器が散らばり、兵たちはそれを拾い集めながら、城外の様子を何度も気にしていた。楚凌も、大門の上から外を見ていた。遠くに見える景衡軍の松明は、明らかに乱れている。陸曜を失ったことで統率が崩れたのだろう。先ほどまで整然と並んでいた灯りは少しずつ南へ流れ始め、街道へ向かう一団も見えた。景衡は逃げる。その読みは、おそらく間違っていない。「楚凌殿」門番頭が隣へ立った。「敵は退き始めておりますな」「ああ」楚凌は短く答えた。逃げる先も分かっている。景衡が治めていた国境の土地だ。かつて景炎と共に戦い、蒼隼国から奪い取った土地だった。城の位置も、その周囲を走る街道も知っている。景衡が自らの領地へ戻れば、残った兵をまとめ直し、蒼隼国へ助けを求めるだろう。そうなれば、また戦が始まる。ここで終わらせなければならない。分かっていた。それでも身体は、もう休めと言っていた。背中の火傷は脈を打つように疼き、陸曜との戦いで開いた肩の傷からも血が滲んでいる。剣を握っているだけならまだいい。だが腕を大きく動かすたびに、肩から背中へ鋭い痛みが走った。「一度、侍医に診せられた方が」門番頭が心配そうに言う。楚凌は首を横へ振った。「まだ終わっていない」「しかし、その身体では――」そこへ、馬の足音が近づいてきた。王都の奥から一騎の近衛が駆けてくる。男は楚凌の姿を見つけると急いで馬を降り、そのまま膝をついた。「楚凌殿。殿下よりご命令です」楚凌の表情が引き締まる。「申せ」「景衡王爺は南へ退却を始めたものと思われます。王都の守備兵は残し、騎馬を中心

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   52. 皇太子の決断

    正殿へ駆け込んできた伝令は、息を切らしたまま床へ膝をついた。「ご報告申し上げます! 陸曜将軍、討ち死ににございます。楚凌殿がこれを討ち取りました。陸曜に従って入城した兵も武器を捨て、現在は拘束されております!」一瞬、誰も声を発しなかった。その報告の意味を理解するまで、わずかな間が必要だったのだろう。やがて正殿にどよめきが広がり、張り詰めていた武官たちの顔にも、初めて明確な安堵が浮かんだ。「陸曜を討っただと……!」「では、反乱軍はもう――」「景衡王爺だけでは軍をまとめられまい!」口々に声が上がる。だが、景炎だけは表情を崩さなかった。陸曜を失ったことは大きい。景衡は皇族であるというだけで反乱軍の旗印になれる。だが、自ら軍を率いて戦況を判断し、兵をまとめ上げる力量がある男ではない。王都内部へ工作員を潜ませ、火を放ち、民を煽り、門を内側から開かせるという今回の策も、実際に組み立てて動かしていたのは陸曜だった。その男が死んだ。ならば、景衡が次に取る行動も、おおよそ想像がつく。「まだ終わっていない」景炎の低い声に、浮き足立ちかけていた正殿が静まった。「陸曜は死んだ。だからこそ、景衡は逃げる」景炎は机に広げられた地図へ視線を落とした。王都から南へ延びる街道。その先には、景衡が治めている国境近くの土地がある。もとは蒼隼国の領土だった。かつて景炎と楚凌が共に戦場へ立ち、多くの兵を失いながら蒼隼国から削り取った土地である。瑞華の領土として安定させ、国境を守らせるため、景炎は弟である景衡へその統治を任せた。皇族として責任を果たしてほしい。弟ならば、瑞華のために土地を守るだろう。そう信じていた。だが景衡は、陸曜とともに兄を裏切った。あろうことか、かつて戦った蒼隼国と手を結び、自らに託された土地を反乱の拠点へ変えたのである。王都攻略に失敗した以上、景衡が逃げ込む場所

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    楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難

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    「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。 寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。 漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。 まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうござい

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   1. 蘭珠と景炎

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